このページをdel.icio.usに追加 このページをはてなブックマークに追加このページを含むはてなブックマーク このページをlivedoor クリップに追加このページを含むlivedoor クリップ このページをYahoo!ブックマークに追加

C81頒布作品同時予約特典小冊子

追加TIPS

2012年12月31日に開催された、コミックマーケット81で頒布された「黄金夢想曲†CROSS」、「彼岸花の咲く夜に第二夜」をセットで同時予約すると付く小冊子の一部抜粋です。
改行・誤字・頁など原文なるべくそのままにしました。


我らの告白


「お嬢様。ドラノールさまがお越しになりました。」
「これはこれは!たかだか、筋書きの確認をするだけのために異端審問官の、それも主席がお越しになるとは!
大法院はよほどの暇か、人余りと見える。」
「……私が立会いを命じられる程に、あなたのゲームが複雑難解かつ見事なものでアル、とお思いいただきたいものデス。」
「世辞はいらぬ、座るが良い。ロノウェ、主席殿に甘い紅茶とクッキーの用意を。」
「畏まりました。」
「結構デス。それより、さっそく拝見させていただきたいデス。……あなたが紡ぐ、新しきゲームの筋書きヲ。」
「良かろうとも。大筋は出来ている。物語としての修飾はまだまだ途中だがな。」


ベアトは卓上の原稿の山を掻き分け、その中から一束を掴み出す。
それこそが、新しきゲームの物語の、原稿。
何度も書き直され、様々な注釈の資料や付箋を貼りつけられたそれには、受け取る前からある種の貫録が漂っている。
ドラノールは一礼してから、それを受け取った。
そして、ロノウェが配膳する紅茶の湯気の中で、その表紙を捲る。


「今回のゲームには何という名ヲ?」
「まだない。妾はいつも、物語を完全に書き終えて最後に名を考えるのでな。」
「了解デス。……それでは早速、拝読させていただきマス。
役得、と言いたいところですが、見事に整えられた物語となってからの初読となれないことが残念デス。」
「くっくくくく。それがデバッカーの気の毒なところよ。」
「…………今回も、実に複雑奇怪な事件のようデス。……これが物語に昇格されたらどのようなものになるのか、……本当に楽しみデス。」
「世辞は良い。さっさとページを捲れ。妾はまるで、原稿を持ち込み編集者を前にした新米漫画家のような気持であるぞ。」


ベアトが悪戯っぽく笑うと、ドラノールも同じ笑みで返す。
ドラノールが手にするのは、……言うなれば書きかけの原稿。
いや、原稿に至る途中のプロットが入り混じる、未完成のもの。
ベアトの好む言い方で例えるなら、……それはまるで、冷やす前のアイスクリームの素。
いや、まだ元としてさえ完成していないだろう。
ボールの中に卵黄と牛乳、生クリームなどが投じられてはいるが、まだ混ぜてる真っ最中という状態。


「……まさに、物語の卵デス。これをあなたは、時間をかけてじっくりと温め、孵化させるのデス。」
「出来ることなら、そなたには見事なアイスクリームとして完成してから、賞味させたかったのであるがな。」
「もちろん、それが最高デス。……しかし、これはこれで乙なものとも思っていマス。」


なぜなら、今の状態は未完成であっても、……そのレシピが晒されている状態。
完成した後には決して見ることの出来ない、貴重なその裏側を見ることが出来るのだ。
これを見ることが出来るのは。
物語を執筆する魔女本人と、……その魔女が認めたほんのわずかの立会人だけ。


これはそんな、未完成のアイスクリームとなる前。
どろどろでカオスなスープの状態の未完成原稿。
物語としての起承転結は存在せず、それどころか読み物としてさえ完成していない。


しかしそれでも。
無限の魔女、ベアトリーチェが、終生、誰にも明かすことのなかった、秘密のレシピが記されている。
料理人にとって、レシピと厨房は聖域。
それを冒そうとすることは、最大の冒涜。
しかし、美味に感嘆したる者ならば、誰もが求めて止まない禁断の蜜でもある……。
ここで、ベアトの好む例えではなく、……フェザリーヌの好みそうな例えに言い換えよう。


これより先に記されたるは、猫の、内臓。
これより先のページを捲るということは、猫の腹を割きて殺すということ。
猫は愛でて、殺して、二度楽しめる。
それはベルンカステルの言葉だが、元はフェザリーヌが口にしたものだ。


だから汝に問おう。
汝は、猫を殺すか、否か。
老境のフェザリーヌは、幾千の物語の腹を割いて殺したことを後悔した。
そして、知ることと知らぬことは不可逆的な関係にあり、知らぬことを処女性に例えて讃えさえした。



だから改めて汝に問おう。
汝は、猫を殺すか、否か。
これより先は、猫の腸の中……。



■協力者
今回の協力者は、蔵臼と夏妃にしよう。
だが、夏妃はプライドが高く、たとえ莫大なカネをちらつかせても、恐ろしい事件の片棒を容易に担ぐとは思い難い。
となれば、すでに逃げ場がなく、選択の余地がない状況に追い込むしかない。
台風後、密かに蔵臼と夏妃を地下貴賓室に案内し、爆弾の仕掛けを明かして脅迫する。
断れば全員死亡。協力すれば、碑文の犠牲者以外は生還できる。
すでに島外との連絡手段は切断済み。蔵臼たちに断る術はない。


10月4日。夕方過ぎ。
雨はますます大粒に、そして風も強くなってくる。
台風はもう、本格的に島を包みつつある。


「……こ、……これは一体……。」
夏妃は、ぽっかりと開いた闇へと続く秘密の地下階段を前に、立ち尽くした。
「怯えることはない。進むが良い。」
ベアトは悠然と微笑む。
「……これが、……お、親父殿の秘密の通路、……というわけなのかね……。」
蔵臼は子供の頃から、この島には金蔵しか知らない、秘密の通路や部屋があると信じてきた。
ではあっても、こうして目前にぽっかりと開かれると、臆さずにはいられない。


「まさか、蔵臼まで暗闇を怯えるのではあるまいな…?
それとも、こうして礼拝堂の裏で、風雨に身を晒し続けることを選ぶというのか。」
「………この先に、何があるというのかね。」
「その目で確かめるが良い。……薄々は想像がついているくせに。くっくっくっく……。」
「あなた、やめましょう。きっとこれは何かの罠です……。」
「……私も出来ることならば、こんな薄気味悪い階段を下りたくなどない。……しかしどうやら、私たちには選択の余地はなさそうだよ……。」


ベアトはにやりと笑いながら、その手に持つ、ソードオフライフルをくるくると弄ぶ。
……確かに、蔵臼たちはその銃に脅されて、ここまで連れてこられた。
礼拝堂に連れ出された時、てっきりひと気のないところで殺すつもりかと思っていた。
しかし、この秘密の地下階段を見せられた今となっては、自分たちを殺すつもりはないかもしれないとも思い始めている。
この秘密の地下階段の存在を知ることが、ベアトが魔女である所以なのだ。
それをわざわざ見せた以上、殺す以外の目的があると考えて、恐らく間違いない。


蔵臼はごくりと唾を飲み込んでから、ゆっくりと地下階段を下り始める。
その夫の後を夏妃も追う。
ベアトはにやりと笑って、悠然とその後に続くのだった……。


地下貴賓室に積まれた莫大な黄金。
もちろん蔵臼たちの心を大きく揺さぶるが、それだけでは恐ろしい事件の片棒など担がない。
爆弾の仕掛けを説明することになる。
幸いにも、蔵臼は金蔵の狂気についてよく理解している。
島を丸ごと吹き飛ばすような仕掛けを戯れに設けていたとしても、笑い捨てることが出来ない。
ここで、ベアトが爆弾の取り扱いを理解している事、そして、その威力について、彼らに理解させなくてはならない。


(……中略……)


「……君はこれから何かの条件と引き換えに、私たちに何かを強いるつもりだろう。
…それがどのようなものか、私には皆目検討もつかないが、可能な限り、交渉に応じるつもりだ。」
「ほう。意外にも理解が早くて助かるぞ。」
「恐らくそれは断り難いものだろう。何しろ、今の私たちは島丸ごとを、君に人質に取られてるも同然なのだからね。」


「その通りだ。爆発から逃れる方法は二つしかない。一つは、妾しか知らない方法によって、時限装置を解除すること。
もう一つは、この格子の向こうの地下通路より島の反対側へ行き、爆発を逃れることのみだ。
……見ての通り、この格子の施錠も我が手中にある。いずれの方法で生き残るにせよ、妾を拒むことなど出来んのだ。」


「わかっているとも。私たちも自分の命は惜しい。
……しかし同時に、君も私たちに何らかの協力を得なければならないらしい。
時限爆弾と黄金という、最高の切り札を2枚も持つ君が、私たちに首を縦に振らさなければならない都合があるらしい。」
「ふふふふ、くっくっくっく…!良いとも、蔵臼よ。そなたが望むのならそうしようではないか。
……これは脅迫ではない。取引だ。妾はそなたたちの協力を得たい。」


「先に見返りを聞こうではないかね。」
「この黄金の山の全てと、家族の命を保証しよう。ただし、それ以外の一切は諦めてもらうがな。」
「……それ以外の一切、という意味を、もう少し詳しくうかがいたいね。」
「そのままの意味だ。何しろ、この島の全ては吹き飛ぶのだからな…!!」


蔵臼も夏妃も、とんでもない話に仰天する。
しばらくは冷静を失うだろうが、いずれにせよ、断る余地のない話。
夏妃をなだめ、蔵臼は再び冷静を取り戻す……。
蔵臼は、島が吹き飛ぶなら、黄金を運び出す時間がないと言い返す。


ベアトは銀行の地下金庫のカードを差し出す。
それはベアトがこれまでに換金してきたもの。
銀行本店の地下金庫には、アタッシュケースに詰めた現金10億円が眠っている。
そのカードを差し出すことで、蔵臼に10億円を保障する。
その金庫に、本当に10億円があるか、蔵臼には信じがたい。


しかし、カネでは家族の命は買えない。


再び、夏妃と論争を繰り広げた後、がっくりと憔悴。
蔵臼は自分の家族と絶対の安全と引き換えに、渋々と協力を申し出る。


もちろん、打算もある。
島が吹き飛ぶのは事故として扱われるだろう。
それによって、親族たちがいなくなれば、自分への追及も全てうやむやに出来る。
金蔵の死も当然、うやむやに出来、自分たちが抱えているトラブルのほぼ全ては、なかったことに出来るのだ。


仮に金庫に10億円がなかったとしても、金蔵にかけられた生命保険には莫大な金額が掛けられている。


……夏妃は渋っているが、……蔵臼にとって、これは悪い話ではないのだ。
そういう後ろめたい部分を隠し、蔵臼は、他に朱志香を守る方法はないと諭す。


「……それで、私たちに何をしろと言うのですか。」
「協力すると言ったが、……おかしな犯罪の片棒は担げんよ。」
蔵臼たちは疲れ切った様子でそう言った。
「妾は、とある人物を持て成す為に、ある芝居を上演したい。」


「……ある芝居……?」
「そやつと妾は推理小説を嗜み、互いに議論を交わした仲よ。故に、その6年ぶりの帰りを祝って、極上のミステリーで歓迎してやりたいのだ。」


ベアトはこの台風で閉ざされた島で、何らかの狂言をしたいらしい。
その辻褄合わせとして、彼女の用意したシナリオに従うのが役目と言う。


つまり、彼女の芝居の登場人物になれということだ……。
シナリオに従い、行動し、喋るだけ。
それ以上のことは強要しないようだった。


ただし、それ以外のことは禁止。
彼女の物語を邪魔するようなことがあった場合は、蔵臼一家の無事を保障しない。
大爆発から逃れるには、屋敷の敷地から遠く離れるしかない。
その唯一の方法は、地下貴賓室からの地下道で島の反対側に逃れることのみ。
そして、その地下道は鉄格子で封鎖され、施錠されている。
その鍵を持つのは、ベアトのみ。
ベアトはその鍵を、全てが終わった後、蔵臼に渡すと約束する。
何から何までが胡散臭く、物騒な話……。


……いや、ひょっとすると、これすらも狂言の一部なのかもしれない。
彼女は、黄金の全てを譲る代わりに、最期の芝居、あるいは余興に力を貸して欲しいと言っているだけなのだ。
彼女が肖像画の魔女のドレスを着て酔狂に笑うのもまた、……碑文の謎を解いた者にのみ許される愉悦なのかもしれない。
蔵臼は重ねて家族の無事を保証させ、それが破られた時には一切の協力をしないと強く迫る。
それに対しベアトもまた。
自分の与えたシナリオ通りに動かなければ、誰一人生かしては帰さないと、狂気の笑いと共に睨みつけるのだった……。


以上をもって、蔵臼夫婦の共犯化完了。
使用人全員と南條もすでに共犯化済み。
ゲーム盤の準備はこれにて完了。


いよいよ物語は動き出す。


「……とにかく、親父が降りてこねぇことには始まらねぇ。」
「まったくだわ。私たちは兄さんと話に来たんじゃない。お父様と話をしに来たのよぅ?」
「………………………。」


親族兄弟たちの辛辣な言葉の数々に、蔵臼はじっと俯いて耐えている。
余計なことは出来ない。
……与えられた、魔女のシナリオ通りに振る舞わなくてはならない。
……シナリオでは、とにかく24時を待てとなっている。
それはもうじきだ……。
その時、大広間の大時計が鳴るのが聞こえた。
24時だ。
……あの魔女のシナリオが、動き始める時間だ……。


“24時に、食堂の扉がノックされる。”


コンコン。
扉がノックされた。
「…………誰だね。」
さりげなく言ったつもりなのに、わずかに声が上擦った。
「……失礼いたします。源次でございます。」
彼もまた、ベアトリーチェのシナリオに従う者。
「あら、源次さん。……どうしたの、こんな時間に。」
「ちょうど良かった。少し喉が渇いてたんや。この辺で少し、お茶でももらって休憩しようやないか。」


源次は、蔵臼に目配せをしてから、一同に頭を深く下げ、告げる。


「……皆様方。お館様が、書斎にお呼びでございます。」


(……中略……)


書斎に招き入れられた絵羽、秀吉、留弗夫、霧江、楼座の5人は、まるで式典に呼ばれた子供かのように、直立不動の姿勢で立ち尽くしていた。


「……お館様。親族の皆様、5名をお連れ致しました。」
「うむ。ご苦労であったな、源次。」
女の声に、一同は驚く。
雷鳴が一瞬だけ彼女の姿を照らし出したが、それは彼らには、まさに大広間に掲げられている症状がそのものに見えた。
「皆様。栄光ある右代宮家の当主、ベアトリーチェさまのお成りでございます。」
絵羽たちはその魔女の姿に呆然とし、開いた口を閉じることさえも忘れてしまったようだった。


最初に我に返ったのは絵羽だった。
「………こ、………これは何の冗談なの?源次さんッ、これはどういうこと?!」
「こ、……こら驚いたわ……。まさに肖像画の魔女に瓜二つやで……。そのドレス、特注したんかいな……。」
「お静かに。当主様の御前でございます。私語は慎まれますように。」
源次にぴしゃりと言われ、一同は再び閉口する。


いや、違う。
彼らが当主であると信じる人物が、暗がりより、ゆらりと姿を現したからだ。
「全てを我が最愛の魔女に返す日がやって来た、ということだ。
今夜。私は右代宮家の全ての財産と、右代宮家当主の指輪を彼女に譲り渡したのだ。」
金蔵は高らかに上機嫌に、そう宣言した。


もちろん、金蔵が姿を現せるわけもない。
金蔵がこの世にすでに存在しないことを知る者にとっては、これは茶番以下の幻想に過ぎない。
幻想とは即ち、結果に対する過程の修飾。
ある結果に至る過程を創作するに過ぎない。
結果的に、この書斎で5人は死ぬ。
無残な最期と、これまでになかった演出と共に。


(……中略……)


ますますに訳がわからず、絵羽たちはヒソヒソと囁きあう
本当に彼らには、たった今、何が起こっているのかわからないのだ。
「やれやれ!金蔵にもわからぬとは!失望であるぞ、ニンゲンども…!それでは正解を教えてやろう。はてさて、今回はどのようにしたものか。
七姉妹ではマンネリだし、シエスタの姉妹兵もお馴染みが過ぎる。ガァプも良いかと思ったが、やはりここは久々に、新しき客人を招こうではないか!」


今回は新しい悪魔に誰を招こう?
魔導書を開き、72柱の悪魔たちからランダムに選び出そう。
……んー、適当にページをぺらぺらと捲って……。
出てきた数字は、64、
72柱の64番目って誰だっけ。


序列第64位。フラウロス(Flauros)
フラウロス。……うん、何だか響きもいい。これにしよう。
さて、どんなデザインにしようか。
ガァプもロノウェも、みんな大人っぽいデザインだから、今回は逆に子供っぽいデザインにしてみたい。
無邪気で殺しまくりっ、みたいな感じ。
デザインの参考になるかな。フラウロスのことをもうちょっと調べてみよう。
フラウロス。フラちゃん。響きは好きなんだよね、うん。
……何々?豹の姿で現れる?
人の姿を命じると男の姿に。……えー、男ー?可愛い女の子がいいな。
設定変更。ケモノ耳が似合う可愛い女の子の姿にしよう。
さくたろうも耳が可愛かったし、あんな感じで……。
ちょっと描いてみよう。


さらさらさら……。


(……中略……)


「フラウロスよ。久しぶりであるな。……我が召喚に応えたということは、少なくとも今は誰の契約にも服していないということ。
嬉しいぞ、そなたを味方として迎えられて。」
「72柱、序列第64位っ。灼熱のフラウロス、登場だぜぃっ。」


それはニンゲンの目には、中学生にも満たない少女に見えただろう。
しかし、彼女こそは72柱の大悪魔、フラウロス。
恐ろしい力を持ち、召喚者の敵を噛み砕き、焼き尽くすことを得意とする、悪魔の中の悪魔なのだ。


「誰でもいいなんていい加減な召喚だったけど。面白そうだからと来てみれば。召喚者はまさかのあの大ベアトリーチェ卿だぜ。
雇われ商売とはいえ、面白いもんだぜぃ。」
「そうであるな。かつてそなたは妾と敵対する魔女と契約していた。………そなたの相手は実に骨が折れたものよ。」
「ま、お仕事だから仕方ないぜ。それであちしの仕事は?あちしの仕事は殺すことか壊すことだけだぜ。久しぶりだから暴れたくてウズウズしてるぜぃ!」
「妾の儀式への協力を命ずる。すでに時計はその始まりを刻んでいるのでな!これより第一の晩の生贄に、6人を殺すことを命ずる!!」
「6人殺しッ、了解だぜぃ!ここに都合よく並んでる6人を、ぬっ殺しちまってもいいんかね?」


「………ふ、…ふっはははっはっはっはっは!何と、そういうことか!これは私も運がないッ、はははははははははは!!」
金蔵はようやく、書斎に一同が集められた理由を悟る。
ベアトの中でもう、第一の晩の生贄は決まっていたのだ。


「……お、……お父様……。これは、……一体、どういうことなんです…?」
絵羽がおずおずと聞く。
しかし金蔵は壊れた笑いを繰り返すだけだ。
「運のないヤツらだぜぃ!さぁて誰から喰らってやろうかねぇ!!」


フラウロスはしなやかに両手を床につく。
その姿は、人でなく、獰猛な豹の姿を思わせた……。


「悪く思うな。そなたらに罪はない。恨むなら、6年もの長きにわたり、約束を反故にしたあの男を恨むのだな。」


きょとんとする一同。
ベアトがソファーの陰に腰を屈める。
そして再び立ち上がった時、その両手には金蔵のコレクションの、ソードオフライフルが握られていた。
ドレス姿とアンティークな銃の組み合わせに、絵羽たちはまるで、貴婦人が扇子か何かを手にしたくらいにしか思わなかった。


少なくとも、その銃口が鉛の散弾を吐き出すまでは。


まず右代宮金蔵の書斎にて、絵羽、秀吉、留弗夫、霧江、楼座を射殺する。
金蔵の部屋の扉は厚く、銃声は容易くは漏れない。
蔵臼と夏妃は熊沢の誘導で、すでに書斎前を離れている。銃声を聞かれることはない。
遺体の加工のための道具はすでに書斎に準備済み。


フラウロスは巨大な豹の姿に変わり、まず金蔵を一呑みにする。
丸呑みされた為、遺体がない、という設定。
金蔵のロープの切れ端くらいを室内に残しても良いかもしれない。
それに驚愕して、絵羽たちは部屋から逃げ出そうとするが、魔法で封印されていて、逃げられない。


(……中略……)


以上のシナリオに従い、遺体を破壊する。
銃創の跡が見つからないように、その部位は丹念に破壊しておく。
フラウロスに、腹を引き裂かれ、腸を引きずり出され、食い千切られ。
それを丹念に再現しておく。


(……中略……)


フラウロスは全身を歓喜に震わせがら、再び四足を付いてうーんと伸びをする。
その体が次第に真っ赤に光り、灼熱を帯びる。
「あちしは72柱の序列第64位、灼熱のフラウロス!!全てを喰らい尽くすぜ、燃やし尽くすぜ、ぶっ飛ばすぜぃ!!あー、次の出番が待ちきれねぇい!!」
彼女の放つ赤い光が、白色に至り、ついには大爆発を起こす。
部屋が破片と爆風と煙と埃で真っ白になる。
そして、暴雨と熱い雨がざぁっと書斎内に吹き込んできた。
フラウロスの爆発が、書斎の壁を砕き、大きな穴を開けたのだ。


「やれやれ。あまり派手にしてくれるな。この部屋にそのつもりはないが、以降は密室殺人の趣向で行くのでな。
そう自由気ままに壁をぶち抜かれてはたまらんぞ。」
「にゃっひひひひひ!それは悪いことをしたぜぃ!あいしは殺すのと同じくらい、壊すのも大好きなもんでぃ!焼き払うのはもっと大好きだぜぃ!!」
そう叫ぶと、フラウロスは豹の姿に変わり、炎の足跡を残しながら雷雨の大空へ飛び出す。
壁の大穴より飛び出し、中庭に飛び降り、壁を蹴って、跳ねて跳ねて、漆黒の大空へ消える。
久し振りの外界が、とにかく楽しくて楽しくて仕方がないらしい。


「なるほど。なかなかに退屈をさせぬヤツだ。くっくっくっく。それにしても、無残なものよ。」
壁にはぽっかりと大穴を開け、……その瓦礫と埃、そして吹き込む雷雨でめちゃくちゃになった書斎。
そして、……腹を引き裂かれ、腸をぶちまけたまま横たわる無残な犠牲者たち。
「たまには、このような大胆な第一の晩も乙なものよ。くっくくく、はははははははははは…!!」


それから、この場に蔵臼と夏妃もいて、この一部始終を目撃したものとする。
なら、彼らの服に埃を浴びせて少し汚しておいたほうがいいだろう。
書斎の惨状の中を、ごろりと一転がりでもしてくれれば、それっぽく汚れるに違いない。
そして、6人殺しが成立したので、蔵臼たちは、運が良かったなとベアトに嘲笑われながら封印の解けた扉から逃げ出す…、という感じ。


その後、大慌ての蔵臼と夏妃は警察などへ電話をするが、なぜか不通。
使用人たちを連れ、パニックになりながらゲストハウスへ駆け込んできた…、という筋書き。
この際、紗音と嘉音を一緒に連れてはいけないので、うまくやらなければならない。
シンプルな設定としては、……先に夏妃と紗音がゲストハウスに逃げ込んできて、蔵臼と嘉音は護身用に銃を取りに行った為、後から遅れてくるというもの。
先に入った紗音は、震える熊沢と使用人室へ入り、その窓から抜け出し、蔵臼と合流する。


その後、ゲストハウスにしばらく篭城。
両親を殺された子供たちは、現場を確認したがったり、あるいは敵討ちを目論んだりと、様々な理由でゲストハウスの外へ出たがるだろう。
彼らがどうしてもとせがむなら、もう一度、書斎へ向かってもいいだろう。
再び、オートロックされてしまっているが、源次が鍵を持っているので問題ない。
異様な犯行現場と、壁の大穴を見れば、到底、ニンゲンに出来る仕業ではないと納得するに違いない。


これで現場に行くと、さっきはなかった不気味な魔法陣が描かれていた……、というのも面白い。
魔法陣自体は数日前から用意しておけば良い。
蔵臼たちに、さっきはなかったと虚偽発言をさせれば良いだけだ。


より不可解さを増すために、蔵臼たちに持たせた犯行声明分の封筒を、密室的シチュエーションで発見させる。


例えばだが、直前に何もないことが確認されて施錠された部屋に、再び蔵臼たちが入ったら、不気味な封筒が忽然と置かれていた、とか。
蔵臼たちの共犯を疑えない限り、封筒の出現は魔法以外では説明できなくなる。
ここで上層界での、最初のミステリー議論を展開できる。
蔵臼と夏妃さえ疑われなければ、絶対に見破られることはない。


恐らくは、鍵の施錠状況や窓やら扉の隙間やらのロケーション的トリック以外に彼らは思い付けないだろう。
しかしながら、部屋は本当の意味で密室で、謎の犯人がどこかに隠れているわけもない。
赤き真実で次々にそれを示してみせれば、彼らはもうお手上げだ。
彼らは、密室に見せかけた“似非密室”しか破れない。
故に、本当にその部屋が密室だった場合、華麗なまでに思考を停止してしまう。


(……中略……)


バウチャー曰く、密室殺人は3つの分類で説明できるという。
この分類方法が非常に明快なため、以下に記しておくことにする。


曰く、犯行は、密室構築の以前に行われたか、最中に行われたか、密室が破られてから行われたか。
この3つのみである。


赤き真実によって、最中に行うことが不可能であるとするならば、密室構築の以前、もしくは破られた後に犯行が行われたことを疑うのは当然となる。


密室に忽然と現れた手紙事件に例えるなら、密室以前に手紙が置かれたか、密室が破られた後に手紙が置かれたか、この2つだけだ。


前者なら、室内に何もないことを確認して施錠した人間を疑うことが出来る。
後者なら、手紙を発見した人間を疑うことが出来る。
つまり、バウチャーの密室分類に基づくならば、直ちに右代宮家の何者かが犯行に協力していることが疑えるのである。
ならば、密室を確認したゲストハウスの子供たちと、“魔女に呼び出された悪魔が親族を殺したのを目撃した”唯一の惨劇の生還者、
蔵臼と夏妃のどちらが疑わしいかは、火を見るより明らかなはずだ。


この世界を、ミステリーだと信じて挑む者たちなら、このようなまやかしには引っ掛かるわけもない。
この世界で“魔女を見た・魔法を見た・悪魔を見た”と宣言するのは、自分は犯人に買収され狂言に参加していると告白するも同然なのだから。


何と簡単でチープなミステリーだろう。
恐らく、私が敬愛して止まない推理作家の作品を愛読する人々ならば、大笑いしながら直ちに看破してくれるだろう。
悪魔の目撃こと、悪魔の証明というファンタジーの極みを見せたにもかかわらず、それがミステリー的決定打となる皮肉を、必ずや笑ってくれるに違いない。


とは思うが。


1000人に1人くらいは、本気で魔女が悪魔を召喚したと信じる者もいるかもしれない。
そんな稀有な者にとってのみ、私の世界はファンタジー足りえるのだ。


脱線が長くなった。
まずは以上により上層界を煙に巻き、不可解事件の序章を飾る。


次なる第二の晩のターゲットは紗音である。
女子供はゲストハウス2階へ上げ、蔵臼と男の使用人たちは1階を固めているということにする。
よって、紗音と譲治は一緒にいられる。
怯える紗音に譲治は付き添うだろう。
この寄り添う二人が、第ニの晩のターゲットとなる。
今回は、寄り添う二人を引き裂けを、拉致してさらい、二人の仲を引き裂く、というニュアンスで扱う。


紗音は1階の使用人室へ寄った後、お手洗いへ寄ることとなる。
もちろんこれには譲治も同行するだろう。
しかしさすがに、女子トイレの中にまでは付いてこられない。
お手洗いの入口で待つことになる。
このお手洗いは1人用ではなく、ゲストハウス用に設けられた、複数人が使用できる大型のもの。
ここで紗音は、お手洗い奥の窓より屋外へ脱出する。
その後、熊沢がお手洗いに訪れる。
熊沢は紗音が脱出した窓の施錠を行う。
その後、悲鳴を上げて、事件の発生を伝える。


「ど、どうしたんです、熊沢さんッ?!開けますよ?!」
譲治は女子トイレの扉を開ける。
すると熊沢が真っ青な顔をして、個室の一つを指差し、がたがたと震えていた。
「ひぃいいぃ、ひいいぃいいいぃ……!!!」
「どうしたんですか…!!紗音ッ、紗音!!」
熊沢の前に女子トイレにいたのは紗音だ。
熊沢の悲鳴は、先に入った紗音の異常を伝えるものに他ならない。
最悪の予感を振り払いたくて。譲治は熊沢が指差す、その個室を見る。
そこには、……真っ赤に、………べったり。
血のように赤い塗料で、……その個室の壁に、不気味な魔法陣が描かれていた……。


「こ、これは一体……?!紗音…!紗音は?!」
「わ、私は存じ上げません…!」
「そんなはずはない!!熊沢さんの入る直前に紗音が入ったんだ。どうしていない?!紗音?!紗音ッ?!?!」


女子トイレ内に個室は3つ。しかし、その何れも無人だった。
出入り口は一つだけ。
そこには譲治がずっといたのだから、今もトイレ内にいるはずなのだ。


考え難いが、奥にある窓から出られないこともない。
しかし、内側からしっかり施錠されているし、そもそもどうして紗音がそんなところから這い出なければならないのか理解できない。
訳がわからない。こんなことある訳がない。
紗音は不気味な魔法陣と引き換えに、忽然と姿を消してしまったのだ…!!
「じょ、譲治さま……。あの、……そこに、……お館様の封筒が……。」
魔法陣の描かれた個室の便座の陰に、……ついさっき、彼らを嘲笑ったばかりの魔女の手紙と同じ封筒が置かれていた。


「まさか、……そんな、……そんな……!!」
譲治はその封筒を拾い上げ、乱暴に破いて中身を引き出す。
そこに記されていた短い一文を見て、……譲治は眩暈を起こしたかのようによろめき、壁にもたれかかるのだった。


“第ニの晩に、寄り添いし二人を引き裂け”



さらったのはフラウロスということになっているので、彼女の性分らしい痕跡を残しておきたい。
個室が焼け爛れて焦げているとか。あるいは内側より爆発した痕跡があるとか。
明らかにニンゲンの仕業ではないと思える不気味な痕跡を再び見せ付ける。


これらについては、事件前からゆっくりと準備しておけばいい。
唯一の問題点として、島を訪れた客人たちのうち、女性がこのトイレに事件前に立ち入るかもしれない可能性。


その為、事件前日の時点では、ゲストハウスの1階女子トイレは故障中なので、各自の部屋のトイレを使って欲しい等とする必要があるだろう。
これ自体はトリックに対する伏線ともなって面白い。


個室内の派手な装飾が、外から見てわからないものだったなら、その個室の扉を閉じておくだけで、客人たちには見られずに済む。
後に、あの時点でトイレ内には誰もいなかったはずなのに、確かにあの時、あの個室は閉まっていた。
……では誰があの個室に居たのか?
……誰もいないはずなのに……、と推理が続けば、魔法陣の準備がすでに行われていたことを見破ることが出来るだろう。
第ニの晩の議論を、存分に楽しんでもらいたい。


紗音と熊沢の共犯を疑うのは難しいことではないはずだ。
それを夏妃に看破させ、使用人に対する疑惑を向けさせるシナリオ。
これは推理小説的なギミック。
登場人物がしてみせたもっともらしい推理は外れている可能性が高い。という王道を逆手に取る。
夏妃が“正解”を口にすることで、彼らに、それ以外に真相があるに違いないと思わせ、煙に巻く手法である。


その後、夏妃と蔵臼は使用人たちに疑惑の目を向けるようになる。
もちろん、譲治たちは反論する。
使用人もまた、自分たち同様、事件に巻き込まれた犠牲者であると主張する。
蔵臼と使用人たちは、話し合いの末、親族グループと使用人グループの2つにわかれて篭城することを決定する。


親族グループはゲストハウスに。そして使用人グループは屋敷に。
譲治はそんな中、紗音を探して外をうろつきたいと主張するだろう。
気が済むまでさせたらいい。
雷雨の中で、すぐに体は冷え切り、諦めてゲストハウスに戻るだろう。


その後、使用人一同は屋敷にてミーティング。
その後の動きを再確認する。


第四~第八の晩は連鎖密室を構築する。
連鎖密室の特徴は、死体を希望した順序で公開していける点にある。
最初の密室を1階に設定し、それ以外の密室を2階以上や、屋敷以外の場所に設定しておけば、自動的に彼らの進行をコントロールできる。


(……中略……)


源次のような例外を除き、ほとんどの買収者たちは殺人事件に関わっていることを知らない方が扱い易い場合がある。
ケースバイケース。


「では、それぞれ、決められた部屋へ移動してもらおう。死体のふりは意外に疲れるぞ。
疲れない格好で倒れておくことだ。くっくっく!」


嘉音は客間
源次は2階貴賓室。
熊沢は2階の夏妃の寝室。
郷田は3階の控え室。
紗音は礼拝堂。
それぞれ殺人現場に散り、そこでメイクを施す。
第四の晩以降は全て、抉りて殺せ。
煉獄の七杭に貫かれて殺されたことになっている。
皆、決められた部屋で、決められた作業に没頭した。
源次は淡々と。紗音と嘉音も淡々と。郷田はバレやしないかとビクビクと。
熊沢はもうそれを超えて、そろそろ狂言が楽しくなってきたところだ。


「をっほほほほ……。色々な悪戯をしてきましたけれど、こんな大きな悪戯は初めてですねぇ。」
熊沢は夏妃の寝室でほくそえんでいた。


「準備はいいか、熊沢よ。」
「おや、ベアトリーチェさま。使用人如きに、奥様のベッドで横になるなど、勿体のうございます。」
「嘘をつけ。ベッドメイクの時、一度や二度、飛び込んでみたくせに。」
「をっほほほほほ。それを言ったらベアトリーチェさまだって。」
「それではメイクを始めるぞ。横になるが良い。」
「それでは失礼致します……。」
熊沢は靴を脱いでベッドに上がろうとする。


「これこれ。死体がわざわざ靴を脱ぐか。履いたままで良い。」
「奥様のベッドに土足で上がるなんて、何だか申し訳ない気がしますねぇ。ほほほほ。」
熊沢は靴を履いたまま、よっこらしょっと、ベッドの上にあがる。
ベアトはその脇に化粧道具の入った鞄を広げていた。


「よい姿勢は見つかったか?ただ横になるだけでも、長時間同じ姿勢を維持するのは疲れるぞ。」
「えぇ、存じておりますとも。でもこれも一億円の為ですものねぇ。をっほほほほほ。」


使用人たちには、各々、一億円を配ることになっている。
……実際にはもう、発送済みだ。
彼らの家宛てに、数日を経て到着するように、銀行のカードと鍵を送付してある。
彼らはそれを受け取ることが出来ないが、遺族は受け取ることが出来る。
葬式代の足しにでもしてくれればいい……。


「こんなところでしょうかねぇ。」
熊沢はベッドの上でもぞもぞとやっていたが、ようやく楽な格好を見つけたらしい。
如何にも殺されたらしい感じになっている。
「ふむ。様になっているぞ。さすが、人を騙しておちょくることに関しては才能がある。」
「ほっほっほっほ。このような大芝居を打つベアトリーチェさまには到底敵いません。」


「ではメイクを始めるぞ。しばらく動くな。……いやいや、もうそなたは死体なのだから、当分は身動きせずにいてもらうのだが。」
「南條先生が出て行ったら、もう楽にしても良いのですね?」
「うむ。南條が検死を終えた後は、警察が来るまで部屋を封印することになっている。そうしたら少しは楽にして良い。
もっとも死体なのであるぞ。賑やかな音を立てるでないぞ。」
「それは存じておりますとも。ではこっそりと、これを隠しておきましょうかね。」


熊沢はシーツの下に、読みかけの単行本とイカの燻製の袋を隠す。
「やれやれ。用意周到なことだ。あまりリラックスし過ぎて気取られるでないぞ。万一、芝居が失敗したら、報酬もなしなのだからな。」
「もちろん注意しますとも、おっほほほほほ……。」


そんなのどかなやり取りをしながら、ベアトリーチェは道具の入った鞄より、杭を取り出す。
熊沢はこの杭に貫かれて殺されたことになるのだ。


「……ふーむ。……すまんがうつ伏せになってくれぬか。仰向けではどうも格好がつかん。」
「うつ伏せでがざいますか?出来はしますが、それでは少々息苦しいかと……。」
「仰向けでは、如何にも寝ていますという感じで実に白々しいのだ。ちょっと試しにうつ伏せになってくれぬか。試しだ、試し。」
「そうでございますか?では失礼して……。」
「長くその姿勢を保つのは苦しいか?」
「しばらくなら何とかなりましょうが。……ほほほ、検死は早めに済ましてほしいものですねぇ。」
「そうかそうか。しばらくそのまま。ちょっと衣装をいじらせてもらうぞ。あまりに綺麗に服を着こなされていても、リアリズムがないのでな。」


ベアトは鞄から道具を取り出す。
それは、軽く束ねた延長コードだった。


「ちょっとすまん、通すぞ。そのままそのまま。」
「はいはい。」


熊沢の首に、その延長コードをぐるりと回し、後ろで交差させる。
それを短く両手で持った瞬間。ベアトはどっかりとうつ伏せの熊沢の上に跨った。


突然のことに、一瞬熊沢は窒息して咽そうになった。
しかし咽ぶことも、声を上げることも出来なかった。
その首にぐるりと巻かれた延長コードが、めりめりと音を立てて、その首を絞め付けていたからだ。
熊沢はまるでプールでバタ足で泳ぐかのように、時折力強く、ばたり、ばたりと、足をベッドに打ちつける。
その上にどっかりとベアトが組みかかり、……ただただ静かに、昆虫や爬虫類を思わせるかのように情け容赦なく、その首を締め上げている。


……その光景はまるで、……巨大な黄金の蜘蛛が、……哀れな獲物に噛り付いて、……その毒液を、ずぶり、ずぶりと、挿し入れしているようにも見える。
そう見えたなら、天蓋ベッドはもはや、不気味な毒蜘蛛の素にも見えたに違いない。
その巣は時折、熊沢のわずかな抵抗に、……ぶるり、ぶるりと、震えるのだった。


やがて、……ゆっくりとベアトが熊沢の背中より起き上がる。
もう、熊沢は微動だにしない。……絶命していた。


「すまんな、熊沢。そなたの抉られし部位は足首。足首を撃たれてから殺されるのでは、余計な苦痛が多かろう。」
ベアトは絞殺道具を仕舞うと、次に傍らのライフルを取る。
そして熊沢のふくらはぎの辺りに狙いを付け、引き金を引いた。


銃声は軽い。……ドラマや映画で聞くような、ドギューンなどという音ではない。
せいぜい、シャンパンの栓を抜いたくらいの音だった。
しかし、血の塊が飛び、そこにはぶくぶくと血の溢れ出す痛々しい穴が穿たれた。
たった今、ふくらはぎを撃った銃弾を穿り出しているのだ。
そして、鞄の中のビニール袋の中にぞんざいに放り込む。
そのビニールの中はすでに地に塗れた銃弾が、いくつか収められていた……。


「第四と第五の晩辺りは、銃だけでケリがつくのだがな。……後の晩になればなるほど、面倒になる。
なので、郷田のような大男は第四、第五の晩でないと殺すのに苦労してしまうのでな。」


それから杭を手に取り、………まだ血を溢れさせるそのふくらはぎの穴に、その先端をぐりりと捻じ込む。
体重をかけて、じっくりと奥まで捻じ込む。
それをそっと離すと、………杭は綺麗に、ふくらはぎに突き立てられた。ちょっと不安定だから発見時には倒れて転がっているかもしれないが、
生贄抉りの杭の存在は充分にアピールできる。


これで、熊沢、郷田、源次は殺した。
最初に発見されることになる嘉音については、まだ役目があるので死んでもらっては困る。


その後、ゆっくりと時間を掛けて、すべての殺害現場の扉に魔法陣を描く。
礼拝堂は屋敷から離れているので、まず発見されない。
屋敷内の4か所は発見されるだろうが、施錠されているため、入るには窓を破る必要がある。
客間以外は全て2階以上にあるため、最初に踏み込むことになるのが客間になるのはほぼ間違いない。


客間では嘉音が死んでおり、そのポケットにマスターキーを持っている。
そして室内には魔女からの手紙があり、次の殺害現場の鍵が同梱されている。
生存者たちは、こちらで指定したルート通りに死体を発見していくことになる。


警察に引き渡すため、現場を保存するという名目で、室内は極力いじらせない、立ち入らせない。
夏妃が子供たちを引き止め、南條輝正と蔵臼だけが死体に近付くという形を取るようにすること。
朱志香辺りが嘉音の死体に駆け寄ることが考えられるので、特に注意。


「嘉音くんッ、嘉音くん!!うわぁあああああぁああああぁあ!!」
「朱志香ッ、落ち着きなさい!!見ては駄目、入っては駄目…!!」
「……な、…何てこった……。畜生………。」
「これで、……使用人たちは犯人かもしれないという疑いは晴れましたね。……夏妃伯母さん。」


使用人たちを疑い、ゲストハウスを追い出した夏妃を、譲治は冷たく睨む。


「どうですか、南條先生……。」
「……詳しい死因はわからんが、死んどることはわかる。……ただ、少なくとも、こいつが致命傷ではないことは確かだ。」


嘉音の膝には酷い傷があり、血塗れの杭が転がっていた。
犯人が嘉音の膝に突き立てたに違いない。
しかし、膝を刺されたくらいで絶命するとは考え難い。
……他の理由で殺されたのだろうが、南條が軽く見ただけでは、その想像はつかなかった。


「とにかく、警察のためにも、現場はそっとしておいた方がいい。
私たちが勝手に荒らせば、それだけで捜査を妨害してしまうことになる。」
「……同感ですな。この部屋は、これまでにした方が良さそうだ……。
それより、手紙の中に入っていた、貴賓室の鍵とやらが気になりますな。」
「………考えたくはないが、……貴賓室にも恐らく………。」
「………………。……行ってみましょう。」
「……何ということだ……。……彼らを……ゲストハウスから追い出さなければ………。」
蔵臼は俯き頭を掻き毟る。
「すまない、……嘉音。……君たちを信じてやることが出来なくて。……部下を信じることが出来ないなんて、……私は人の上に立つ資格はない……。」


「嘉音くんの膝に、……杭……?」
「きひひひひひ。第七の晩だね。膝を抉りて殺せ。」
「………ってことは、第四、第五、第六はどうなるんだい。……他にも、少なくとももう、三人殺されてるって意味じゃないのかい……。」
「お、落ち着けよ、譲治の兄貴……。まだ、そうと決まったわけじゃ……。」
「く、蔵臼伯父さん。貴賓室へ急ぎましょう…!」
「……う、うむ。少し待ちたまえ。割った窓をこのままには出来ない。鎧戸を閉めておこう……。」
「嘉音くん……、嘉音くん……。……母さん、せめて最後に、……顔だけでも……。」
「気持ちはわかります。……でもこれ以上、現場は荒らせません。……犯人を必ず見つけるためにも、このままにしなくては……。
だから、ここから祈りなさい……。彼の冥福を……。」
「ううぅううぅぅぅぅ………………。」


そして一同は2階貴賓室へ向かう。
次に夏妃の寝室へ。
次に3階の控え室へ。
その間に、嘉音は客間をこっそりと抜け出す。
マスターキーはあるので、堂々と扉から出て施錠するだけでいい。
嘉音はマスターキーを2本持っているので、うちの1本は客間内に残していっていい。
碑文殺人終了後、全ての殺害現場が再検証される恐れはもちろんある。
その際、嘉音の死体がないことに矛盾が生じないよう、犯人が嘉音を死体を持ち去るというアクションを与える必要がある。
その嘉音の死体消失でもう一度ミステリーを仕掛けることが可能。


嘉音は礼拝堂に向かい、そこで紗音と落ち合う。
そして、紗音にマスターキーを渡す。
「……お疲れ様。首尾はどう?」
「ただ寝てるだけさ。こんなの、肥料の袋を運ぶ仕事より簡単さ。」
「ご苦労であったぞ、嘉音。これでそなたはお役御免だ。」
「……ありがとうございます、ベアトリーチェさま。……じゃあね、姉さん。また、次のゲーム盤で。」
「うん。また次のゲーム盤で。」
ベアトリーチェがケーンを振るうと、嘉音の姿は煙管の煙に溶けて消え去る。


「さて。連鎖密室のトリを飾るのはそなたであるぞ。」
「はい。心得ております。」
「そなたには、第四の晩を与えることにする。これが、もっとも慈悲深い晩だ。」
「ありがとうございます。」


ベアトと紗音は礼拝堂に入る。
寒々しくも、荘厳な礼拝堂は、風雨の音だけに包まれている。


「……どこがよろしいでしょう。」
「祭壇の裏手辺りはどうか。」
「畏まりました。」
ステンドグラスと、それを背負う祭壇には20cmほどの隙間があるようだった。
その隙間は充分に深い。
紗音は予め用意してあった鉄アレイをロープで縛る。
そして、その隙間にゆっくりと吊るした鉄アレイを下してみた。
問題なく入る。鉄アレイの重さも理想的だった。


「どうだ、問題ないか。」
「はい。充分です。問題ありません。」
「では先に、杭の化粧から始めよう。そなたの杭は、血で汚すことが難しいのでな。」
鞄の中から塗料を取り出す。
映画などで使う、本格的なものだ。
それで杭の先を汚し、血化粧を施す。


「こんなものか。そちらの準備はどうだ。」
「はい。こちらも準備できました。」
紗音は、鉄アレイを縛ったロープの反対側に、拳銃を吊るしたところだった。
そして鉄アレイをステンドグラスと祭壇の隙間にゆっくりと下して吊るす。
途中のロープは祭壇の角に引っ掛ける。
しかし、拳銃より鉄アレイの方が重いので、手を離せば、すぐに引っ張られ、拳銃ごと、隙間に落ちてしまうのだ。


「うまく落ちそうか?」
「はい。問題ありません。」
「………うむ。」


紗音は、ロープに引っ張られる拳銃を、ベアトに手渡す。
そしてベアトは、血化粧を施した杭を、紗音に手渡す。
紗音はその杭を、自分の額にそっと押し当てる。
ベアトも拳銃を構え、紗音の額に、杭に添えるように当てた。


「悔いは、ないのか。」
「……ありません。全てはベアトリーチェさまの思し召しのままに。」
「残念であるぞ。……誰かが碑文の謎を解けたなら、……そなたも死なずに済んだものを。」
「解けるわけがありません。あれほどの、難解な謎が。……元より、望みのない賭けでした。」
「それでも、妾は賭けたのだ。……それでも叶う奇跡こそが、魔法だとな。」
「………この毒素に満ちたニンゲンの世界には、魔法も奇跡もありません。……ベアトリーチェさま。あなたこそが唯一の魔女にして、
……この世に魔法を顕現できる唯一の存在なのです。」
「そうだ。……我こそは黄金の魔女、ベアトリーチェ。安らかに眠れ。次にそなたが目覚める時は、そこは黄金郷だ。
そこには、そなたの愛する譲治もいる。」
「……ありがとうございます。ベアトリーチェさま……。」


乾いた音が、風雨の音しか聞こえない礼拝堂の中に、わずかの間だけ残響した。
紗音はふわりと天井を見上げ、……それから、くしゃりと、操り糸を失った操り人形のように座り込み、倒れた。
ベアトは手にしていた拳銃を手放す。
すると、鉄アレイの重みに引っ張られ、……拳銃はするするっと、隙間に飲み込まれていき、重い金属音とともに、その暗闇に飲み込まれて消えた。


後には、祭壇の前で、額より血を流して横たわる紗音の体と、その脇に転がる、生贄抉りの杭だけだった。


「……ふむ。これで、倒れた拍子に眉間より杭が抜けたように見えるな。」
そして、再びケーンを振るい、黄金蝶の姿を、封筒に変え、紗音の傍らに置く。
中には、第一の現場である客間の鍵が収められている。
これで、連鎖密室は完成だ。
5人がそれぞれ、次なる部屋の鍵とマスターキーを持ち、全員が密室に閉じ込められている。
さらにケーンを振るい、封筒の中に手紙も残す。
それは、嘉音の遺体をさらなる生贄の儀式のために拝借するというもの。
これで、彼らが大慌てで客間に戻るだろう。
その時にはとっくに客間はもぬけの殻。二度と嘉音の死に顔を見ることは出来ない……。


「さぁて……。これで碑文連続殺人は終了であるなぁ…?どうであるか、戦人ァ。妾のミステリー、楽しんでくれると良いのだが。
……くっくくくく、はっはっははははははははは!!!」

嘉音の遺体消失に関するストーリーは、せっかく呼び出したフラウロスを絡めよう。
嘉音は死亡後も、魂となってベアトやフラウロスに抗って。
その甲斐なく敗れて、さらに遺体もフラウロスに丸呑みされてしまった、みたいな。


これにて、今回の碑文連続殺人事件は終了。
あとは、フラウロスを絡めたファンタジックな読み物に書き換えるのみである。



「今のところはそんなものである。ここから、読み物としての体裁を整えていくのが、一番骨が折れるのだ。
……表の物語と裏の物語。これを一致させつつ読み物として充実させるのは実に苦労する。トリックを考え出すのと同じか、それ以上にな。」
「……そして、その上辺だけの物語だけを読ませるのですから、貴女の物語は、何とも贅沢な限りデス。」
「そうであるな。妾は常に、ミステリーの物語とファンタジーの物語の2つを描いている。にもかかわらず、公開されるのはその一方の物語だけだ。
それは例えるなら、牛より、最も上質なる肉をわずかだけ切り出し美味なる料理として、残りは全て捨ててしまうかのような贅沢だ。」
「贅沢な例えデス。……しかし、……惜しくもあるのではないデスカ。」
「惜しい、とは?」


ドラノールは原稿の束をベアトに返す。
ベアトはそれを机の上でとんとんと整えながら、問い返した。


「……あなたは倍の物語を描き、その上辺の半分だけを料理しマス。……贅沢に捨てられた残りの半分を知る者は、その味と大胆な切り捨てに、
驚きと賞賛を送るでショウ。……しかし、世の中のニンゲン全てが、あなたの望むほど舌が肥えているとは限らないのデス。」
「そういう輩も、時にはいるであろうな。」
「あなたはそれを、1000人に1人と記しましたが、恐らくは逆デス。1000人に1人を除いて全てのニンゲンは、
あなたが本当に読んでもらいたかったにも関わらず、切り捨てて葬った、残り半分の物語を察することも出来ないに違いないのデス。」
「くっくくくく。良いではないか。贅沢に上辺のみを切り取って物語とした読み物だ。
ならばその読み手も、1000人に1人を除いて全てを切り捨てるというのも、何とも贅沢で良いではないか。」
「………それであなたは良いのデスカ。人は物語を、読まれるために描くのデス。
……誰にも読まれることのない物語を描き、自ら闇に葬るなど、……贅沢の極みを超えて、愚かしくさえ思えるのデス。」


「くっくっく。良いではないか。1000人の999人に理解できるように記したものが文書と呼ばれるなら。
1000人の1人にしか理解できない我が物語は、奇書と呼ばれるに相応しい。
……魔女の描く物語なのだ。ならば奇妙な味たる、奇書で良いではないか。」
「……私の役目は、戒律を用いて、その奇なる物語を万人に理解できるようにすることデス。」
「そういうことだ。だからこそ、本当はそなたの手に委ねたくはない。」
「ですが、あなたの考えはわかりマシタ。999人に理解できるようには出来ませんが、……せめてあと1人、理解できるようにする手伝いを、
出来るかもしれマセン。」


「手伝いとは何か。」
「この、未完成の原稿を、いつの日にか公開したいのデス。」
「妾が料理に使い、捨てた腸を、わざわざゴミ箱より引っ張り出そうというわけか。」
「……あなたは恐らく、誰にも理解されないでショウ。しかしながら、それはあなたの本心とも思えマセン。
あなたは999人への理解は求めていナイ。しかしそれでも、たった1人への理解を求めてイル。」
「その1人さえ、現れぬ可能性もあるわけだからな。………自分の胸の内を誰かに理解して欲しいと願うのは、恋する少女だけではない。
……千年を経た魔女とて、それを願うのだ。」
「そして少女はわざと難解な言葉でそれを語り、たった1人の王子の迎えを待ツ……。」


「そういうわけだ。くっくくくく、妾も、長い月日をかけて、何ともややこしい物語を書き上げたものよ。」
「もし、その王子が現れない時。………私があなたへ導く、道標となりまショウ。」
「……ミステリーであること保証するノックスの十戒か。くっくくく、そんなものが、果たして妾への道標となるものか……。」
「それでも足りなけレバ。……この未完成の原稿を公開し、あなたの世界への鍵としマス。」
「何とも恥曝しな話だ。告白する勇気もない小娘が、友人に代弁させるかのようではないか。」
「それで成立する愛もあるのデス。」
「ふ、……くっくくくく、はっはははははははははははは。……良かろう。この原稿を、そなたにくれてやろう。」


ベアトはこちらへ向き直り、紫煙を棚引かせる煙管のケーンで原稿の束を叩く。
すると原稿の束は、くるくると丸まって細くなり、ポンと現れたボトルの中に封じられた。
それをドラノールに放る。


「そなたの好きにせよ。ただし、条件が一つだけある。」
「……何でショウ。」
「妾の生ある内に。その封を解くことを許さぬ。」
「……それでは、この原稿によって真実に辿り着いた人々が、あなたに答えを告げられマセン。」
「妾の待つ王子は、その原稿を読まずに至った者のみだからだ。……猫の腹を割いた後では、猫を愛でることは出来まい?
そのボトルを開けるとは即ち、妾の腹を割くも同じことだからだ。」


「……………わかりまシタ。そのように致しまショウ。願わくば、この原稿によって、あなたの墓に参る者が現れることを、心より祈りマス。」
「どうだかな。………カケラの海の魔女諸賢は実に冷淡であるぞ。妾の墓に参る者が仮にいたとして、唾を吐きかけるだけであろうがな。」
「……あなたが、愛ある者に視える物語を描いたナラ。……あなたもまた、彼女たちを愛するべきなのデス。
あなたの求める王子とて、あなたに愛がなければ、視えないのデス。」
「……ふ、……ふっふふふふ。……これは一本取られたぞ。そなたの勝ちだ。さぁそのボトルを手土産に帰るが良い。
妾はまだ死なぬ。書き終えなければならぬ物語は、まだまだ長いのでな。」
「それでは、これで失礼しマス。……お元気で、大ベアトリーチェ卿。あなたを待つ、大勢の愛ある魔女のことを、どうかお忘れナク。」
「………そうであるな。それを、そなたの置き土産と思い、受け取ることにする。ロノウェ、客人のお帰りだ。
玄関まで見送るが良い。その後、妾にはもう一度紅茶を。久し振りに甘いミルクティーを飲みたくなった。」
「……畏まりました、お嬢様。」



遺言に従い、大ベアトリーチェ卿の死後に、この未完成原稿を公開する。


この原稿を読んで、私は晩年の彼女の悲しみを思い浮かべ、涙が浮かぶのを禁じえなかった。
同時に、彼女が哀れでもあった。


彼女は愛ある者を求めながらも、彼女の心は皮肉的に批判的に、愛なき者への怒りでいっぱいであったからだ。
彼女はかつて、1000人に1人だけに届けばよいと言った。


しかしそれは違った。
彼女は1000人の中に、1人でも多く届くことを願ったのだ。
それを彼女に問えば笑いながら否定するだろう。
しかし間違いなく、それが彼女の本心だったのだ。


私は初め、この原稿の公開に消極的だった。
彼女が生前、何度も口にしていた、1000人に1人の、彼女の救世主の神秘を守るためにも、非公開であるべきだと思った。
しかし、何度も読み返す内に、……彼女の原稿は、宛先なき恋文であると気付くようになった。


彼女さえも気付けなかった本心。
私はそれを今、理解し、それを叶えてやるべきだと思った。
それが、この未完成原稿を公開するに至った動機である。
これを読み、あなたがベアトリーチェという一人の女性に感じたものが、愛であっても怒りであっても、どちらでも構わない。


しかし、もし可能ならば。
この物語の一番底に秘められた、彼女の思いに至って欲しい。
彼女はこの物語を、2つ描き、1つしか公開しないと言った。
しかし、本当はそれも違う。
3つ描き、1つしか公開しない物語なのだ。
この未完成原稿によって、その3つの内の2つまでが晒された。
最後の1つは、どうかあなた一人の力で辿り着いて欲しい。
それが、同じ女として、これを読む諸賢に強く願いたいことである。


愛がなければ視えない。


彼女の言葉だ。
だが言い返そう。


誰の心にも、愛はある。


それが視えなかったことこそが、彼女の悲劇なのである。


本書の編集に協力してくれた諸賢に厚く感謝する。
特に、上席補佐官のアン・ズーに。


――― ドラノール・A・ノックス